RIP CURL

IT’S 1969...

伝説の始まり

1969年の3月、2人のサーファーがベルズビーチで有名なトーケイのギルバートストリートで出会った。クロウことダグ・ワーブリックはサマーシーズンのシェーピングをフレッド・パイクとちょうど終えたばかり、もう1人のシングディングことブライアン・シンガーは理科の教師をしていた。2人は意気投合し、数ヶ月さきに迫ったベルズのサーフシーズンをどう有意義に過ごすかという話題で盛り上がった。そのときクロウがあるすばらしい提案を申し出る。「サーフボードを俺と作ってみたくないかい」それが実現すれば好きなだけサーフィンができるとブライアンはすぐに悟る「もちろんだよ」と答えた彼は2日後には教師の職を辞していた。タイミングはパーフェクト、この必然のような出会いによってリップカールが産声を上げた。

1967年に行なわれたベルズイースターコンテスト/オーストラリア選手権のセミファイナルに進出したときのブライアン。ベルズビーチ

チューブを狙うクロウ。初期のインドネシア遠征時

ザ・ガレージ

クロウがサーフボードのシェープに掛かりきりになると、ブライアンは、グレートオーシャンロード35番地にあったガレージをサーフボードの工房として機能するように改築に取り組んだ。ガレージの内部からはコンクリートの床にノミを打ちつける冷たい金属音が鳴り響いた。その目的はサーフボードスタンドを立てるためだ。彼らは1ヶ月を掛けてその準備を行なった。そしてついに1969年の4月最初のサーフボードが完成する。クロウは週4本のペースでトーケイのベストサーファーたちのためにサーフボードを作り、ブライアンはサーフボード作りで一番過酷な作業サンディングとフィンの製作を庭で行なった。

ザ・ガレージ「私たちはここでサーフボードが作れるようにした。簡素だった」

パン工場をファクトリーに

その冬は仕事も順調なだけでなく、ベルズビーチは思い出に残るほど波に恵まれ、サーフボードのテストに十分に時間をかけることができた。11月に入るとガレージは手狭になりもっと広い場所が必要だと彼らは感じるようになった。そのためにボストンロード5番地の古いパン工場を週10ドルで借り、ファクトリーを移した。そこにシェーピングベイ、グラッシングとサンディングルームを設け週12本の製造を可能にした。

古いパン工房。左から、ブリュースター・エベレット、クロウ、テリー・ゴールドウォーシー、犬のチャガ、トニー・エリス、ゲリー・クロサル

ウェットスーツ

1969年の12月、2人はローカルサーファーのアラン・グリーンを迎え入れてウェットスーツの製造を副業として始めた。場所はビールストリートのトーケイ・パブの裏にあった家の地下室。グリーニー(グリーンの愛称)は、ダイビング用ウェットスーツの会社オーストラリアンダイバーズにいたこともあって、厚手のゴム素材はメルボルンの辺地クレイトンにて“Pffaf 138 zig zag”というミシンで縫製されていることを知る。したがって彼らは外注にその製造を依存したが、製品の需要と品質向上のために自社ですべての行程をする決断をした。ウェットスーツ製造部門はジーリーベイロード66番地にあるクロウの家へと移転することになった。

古いパン工房内部の”ちゃんとしたグラッシングルーム”として認知された部屋。安全第一!

古いパン工房でウェットスーツを裁断するジョン・スパロウ・ペイバーン(現リップカール)

リップカールの従業員たち、後列レスリー、スパロウ、クロウ。前列スジャーン・ガーナー、マゴーアー・ザグルーワー、スー・ムラーそしてナンシー・ミリカン

フォーカス

リップカール創立時、一般社会は激動の時代であった。フラワーパワーと、反体制のムードに世の中は満ちあふれていた。ビジネスでさえも例外では無かった。グリーニーは1970年の4月にリップカールを離れ、クロウとブライアンたちの援助を基にクイックシルバーを立ち上げた。だが結局は彼らの目ざすところに相違が現れてパートナーシップは終わりを告げた。ブライアンによると彼はクイックシルバーにおける取り分とグリーニーが所有していたベルズビーチの土地の半分とを交換したのだという、いまも彼はそこに住んでいる。「土地の価値についていささか意見の相違があった。たしか5000ドルかそのくらいだったと思うよ。だからコイントスで決着したんだ。どっちが勝ったかはもう忘れたけれど、とにかく取引成立ってわけだ」のちにクロウも彼の取り分をグリーニーに売却し、新しいパートナーのジョン・ロウのところへと譲られた。クロウがどう扱かったかは今もって手がかりさえつかめないのであった。

リップカールの最初の広告。ブライアンとクロウはその構成のために何週間もの時間を費やした

その道程

古いパン工場に本拠を置いたリップカールは活気にあふれ、あっというまに手狭(てぜま)となってしまった。そこで創立者たち2人は工場のとなりの家までも社屋としウェットスーツの工場とした。第二次世界大戦にパイロットのブーツを縫製するために開発されたミシン“1910 Singer Up The Arm Zig Zag” を手に入れ、新しい”ロングジョン”モデルの脚部の縫製に使った。またその製品はアメリカ製の快適なネオプレーン、ラバーテックスを使用していた。そんななかクロウとブライアンはこの古いパン工場を、サーファーたちを自然に招き入れる本拠地のようにしたいと考えていた。「そこはメルボルンという都会からドロップアウトしたサーファーの駆け込み寺だった。彼らは堕落しクリシュナに救済を求めているようなありさまだったな」とブライアンは笑いながら回想した。「でも少しずつ回復して、最後にはリップカールの工場でウェットスーツを作るようになったんだよ」サーフィンの勃興期(ぼっこうき)とも重なり、リップカールは順調に売り上げを伸ばした。そして1976年に古いパン工場からギーロングロードに新社屋を建設する。(現在はメディカルセンター)そのあとまもなくとしてクイックシルバーがそのとなりに店を構えた。さらに1980年になると道路をへだてた反対側に現在のリップカール本社が移った。その場所はトーケイ、サウスコーストハイウェイ101にある。

1980年当時のリップカール本社、トーケイギーロングロード

その社名の由来

リップカールの創立は1969年だが、その社名は1967年にすでに存在していた。ことの起こりはクロウとブライアンがダニー・ケヨのエージェントを務めていたことが発端だった。ダニーはボブ・マクタビッシュがデザインした”ファンタステイックプラスティックマシーン”を作っていてその販売をブライアンとクロウそしてテリー・ウォールが所有するベルズビーチサーフショップに委託していた。

(そこはベルストリートの古いガソリンスタンドであった)彼らは当時起こったショートボード革命でも大きな関わりを持っていた。

そのプラスティックマシーンはヒットし彼らは大量の注文を抱えた。しかし需要が高くても供給は十分ではなかった。そこでクロウたちは自分たちのモデルを誰かに作ってもらおうと考えた。ブルックベールのシェーン・ステッドマンにこの話を持ちかけると、シェーンはすぐに乗ってきた。「そのボードならば作ることができるよ」シェーンは言った。「でも売るためには別の名前が必要だね」

ある日の午後、クロウとブライアンそしてローカルサーファーのサイモン・バテンショーは店のなかで新しい名前を思いついては書き上げていた。「僕が持っていたマクタビッシュのプラスティックマシーンにサイモンがリップカールホットドックとペイントしたんだよ。そのネーミングがすごく気に入ったのさ」とクロウは回想する。いろいろな名前やサーフィン用語について議論が続けられた後あとに

“リップカール”という名が最後に残った。それは良い選択となり1969年の4月に会社が創立されたときにも社名として選ばれることとなったのである。

最初のサーフボードロゴ。倹約は美徳、このマークは古いパン工房に移ったあとも無くなるまで使い続けられた

RIP CURL

IT’S 1969...

リップカール
ザ・サーチ、それはリップカールの生きざま

80年代後半、軌道に乗った会社の新たな目標としてブライアンとクロウはリップカールの存在意義を模索した。「サーファーや顧客と私たちとのあいだに連帯感を表現できる象徴を捜していたんだ」とブライアン。「リップカールとしてどのようにあるべきかまたどうあり続けたいかを表したかった」

1969年にこの会社が創立された短い期間、世界情勢は変化していた。60年代のフラワーパワーは戦後の消費主義を拒絶し。若い世代は旧世代からの脱却を計ろうとした。1967年9フィート以上あったサーフボードは8フィートそしてさらに劇的に短くなっていった。ロックバンドのビートルズやローリングストーンズ、ローリングストーン誌、そしてサーフィン誌トラックスはそのような時代を反映し新しい価値観を示した。

このような社会情勢の波は、サーファーには順風となり旅行や冒険に挑戦する人々を鼓舞した。70年代はその新しい自由な生き方を実践する時代となった。多くのサーファーは都会を離れて農場やツリーハウスに移り住んだ。そのムーブメンとはアルビー・ファルゾンの映画モーニングオブジアースで具現化された。

人気者のクロウ、インドネシア1975年

ブライアン、1973年

1973年、ベルズイースターラリーはリップカールプロと名称が変わった。それだけでなく地元のヒッピーたちはこのコンテストが商業主義ではなくまたコンテスト後のパーティーにも数ドルで参加できることを喜んだ。

80年代にはいると物欲主義が社会の先導役となった。ビーチには蛍光色のボードショーツが溢れ、ASPは新しいワールドツアーを創設した。試合は点稼ぎとなり、点稼ぎは金となった。この時期ブライアンとクロウはこのサーフィンを取り巻く状況を哲学的な見地から分析し討議を重ねた。トレンドの最前線を維持しながらリップカールを90年代に向けていち早くリードさせていくにはどうすればいいか。「金金金と欲にまみれた80年代を経て、90年代に人々はどう変わっていくかと考えたんだ。おそらく70年代の価値観を見直すのではないかってね」とブライアンは語る。「私たちはサーフィンの根底に在るもの、サーファーがほんとうに望む普遍の真理を模索した」その答えを探るべく2人は世界中の専門誌の編集者から助言を求めた。

サーフジャーナリズムは読者を通じて世界中のビーチと直結し大きな影響力も持つ。2人が出会った人々の中にはサーファー誌のスティーブ・ペズマンとジェフ・デバイン、サーフィン誌のボブ・ミグノナとラリー・フレーム・ムーア、サーフィンワールド誌のブルース・シャノンとヒュー・マクレオド、トラックス誌のゲリー・ダンがいた。その結果、彼等の思索も2人と同じ方向性を示していることを知る。

1991年のスンバワで、左からフランコス、バグマン、マーティーそしてロバート・ウィルソン(背後)

1991年リップカールはスンバワへのボートトリップを企画しインターナショナルマネージメント会議を行なった。オーストラリア、アメリカそしてヨーロッパの3つのエリアから代表がこのトリップに出席した。ブライアンとクロウは会議の議長となりヨーロッパからはフランコ・パヨット。トーケイからはグラント・フォーブス、ロハン・バグマン・ロビンソン、カリフォルニアからはマーティー・ギルチリストそしてバリからロバート・ウィルソンも参加した。

「ある冒険旅行のアイデアがある。グッドウェイブを捜しサーフィンをして、夜はビールで楽しい時間過ごして次の日も同じことのくり返す、それはサーファーにとって究極のライフスタイルだ」と会議でブライアンは続けた。「これこそがリップカールの本質なのだ。これをテーマにしてキャンペーンを展開する、あと必要なものはネーミングだ」そして「ザサーチ」という言葉がふさわしいという意見で満場が一致した。パーフェクトな名前だ。サーファーはつねにサーチしているからね」とブライアン。「ついにぴったりのネーミングを手に入れた」

海賊クロウ、1991年

キャンペーンの方向性を見つけた2人はトーケイに戻る。そしてリップカールのご意見番デレク・ハインドが「サーチセッション」のアイデアとカメラマンを補佐することになる。それは若いサーファーたちをバスに乗せて海岸線を旅して、若いサーファーや女の子をピックアップしては一緒にサーフィンやパーティーをして楽しむというものだった。これは「グロム・サーチ」というイベントに発展し世界的なシリーズとしてグロム(少年少女)向けに続けられている。

最初のサーチキャンペーンでのトリップ、マカロニにて、左からフランキー、ダーボ、ブライアン、クロウ、バイロン、ソニーそしてカレン (手前は船のコック)

1991年のスンバワトリップでのボート、ここでザサーチのコンセプトが誕生した

クルーのために魚を釣り上げたブライアン、スンバワ1991年

ザサーチの謎めいたロゴが初めて登場したのが1992年の2月から3月のトラックス誌だった。キャンペーンに沿ったサーフフィルムが公開されるまで、不可解なこの広告がサーファーの興味を引きつけることになる。

そしてロゴの次にパーフェクトウェイブの写真が広告に登場し、世界中のサーファーの心を捕らえた。グロムも若いサーファーも女性サーファーもそして年輩のサーファーもこのキャンペーンの意図するものがサーファーの全ての願望であることを読み取るのであった。

ソニー・ミラーによるリップカールの最初の映画、ザサーチ/インド洋遠征、が世界中のサーフショップで販売された。そしてそれに続く彼の作品はシリーズとなり現在でもカルト的な支持を受けている。

このキャンペーンは広告宣伝車として重要な役割を数年に渡って担った。この活動によってリップカールの企業イメージが、サーフィンの世界で確立したのである。ザサーチはいまも続いている。